社会進歩が生産や分配に及ぼす影響は豊かさと幸福をもたらすのか?

特に魅力が凝縮されている「社会進歩が生産や分配に及ぼす影響」に焦点を当ててみる。前半では資本を投じて得られる利潤の割合(利潤率)が低下し、資本蓄積が一定水準に到達した「定常状態」について肯定的な評価を展開している。ミルの態度はT.R.マルサスなどの経済学者が経済停滞を否定的に捉えていたのと対照的である。ミルは定常状態においては低収益の資本設備や金融市場の投機に資源を投じるよりは教育や福祉などに資源を有効に活用する方途を見据えていた。平等な所得分配のあり方が考察されている。

リカード経済学では人為がまったく及ばないという意味でパイの規模を決める生産法則とパイの配分を決める分配法則を一体のものとみなしていたが、ミルは分配法則のほうは人為にも左右されると考えた。その結果、分配理論に社会主義的な考え方を取り入れる余地か生まれた。

しかしミルが本当にユニークなのは競争の重要性も強調し、平等な分配への志向か生産効率の劣化に結びつかないように予防線を張ったところである。諸悪の根源として競争を敵視した社会主義者とは一線を画していた。「経済学原理」で題された章は日本の学説史家の間で「定常状態」でなく「停止状態」と翻訳されて、ずいぷんとネガティブな印象を読み手に与えている。

ミルが理論面でよりどころとしたリカードたちも収益性の高い投資機会が枯渇するとともに利潤率か低下し、資本蓄積が停止した経済状態を否定的に捉え、強く嫌悪した。「経済的な望ましさ」=「進歩的な状態」という発想が支配的だったからである。

しかしミルは定常状態をずいぶんと肯定的に捉えていた。彼は経済的活力が失われて経済全体が停止した状態として捉えてはいなかった。彼の定常状態に対する理解は現代のマクロ経済学の理解とほぼ同じである。すなわち資本蓄積の定常状態は資本蓄積か停止したのではなく資本を積み上げていく力と資本が取り崩されている力がちょうど均衡した状態を指している。

ミルは、あたかも静止している状態に見える定常状態において経済の新陳代謝を見いだしていた。このように理解したうえで定常状態に達した経済で収益率の低い生産資本に資源を投じて無理に経済成長を図っても、せいぜい低賃金労働者を養うだけだと喝破した。また資源が投機に浪費されやすいことも指摘した。

ミルは希少な資源を非効率な投資に浪費するぐらいならば人々にとって必要な公的支出に充当する、あるいは技術革新の原資とする方がかえって経済厚生を高められるとさらっと書いている。もちろん人間の幸福の基盤となる物質的な豊かさを軽んじたわけではない。

人々が競争をして豊かになる過程を道徳的に非難したわけでもない。一方、ミルは社会全体の経済状態の如何に関わらず人間には幸福になる契機や精神的に成熟進歩していく十分な余地があることも指摘している。

彼のしなやかな筆致の文章に接すると経済全体の豊かさは人間の幸福の必要条件にすぎず、豊かな経済環境から幸福を着実に引き出していくには人間としての成熟が必要であるとやんわり諭されているように思ってしまう。

— posted by しょういち at 03:59 pm  

 

金融市場の不安定性と金融危機を分析した経済学者

リーマン・ショック後の金融危機を阻止し、経済の回復を図るべく世界中で拡張的な財政政策が採用された2009年春、東京に立ち寄ったポール・クルーグマン米プリンストン大学教授はミンスキーの本を手にしていた。「ミンスキー・イズ・バック」と話しかけるとニヤっとしながら「イエス、ミンスキー・イズ・バック」と言っていた。

これまで書いてきたように金融市場の不安定性と金融危機を分析した経済学者は決してミンスキーだけではない。しかしマルクス経済学はもちろん、そうした経済学は米国を中心とするマクロ経済学の中ですっかり消えてしまった。ただ1人ミンスキーの名が残っているのである。

ジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873年)をさかなに(大変に失礼な話だが)自由、平等、競争といった現代社会を支える大切な概念を再考しようという趣向である。なぜ今ミルなのかというと19世紀までの「自由社会」に関する様々な思潮がミルというひとりの思想家の頭の中で一旦ごちゃ混ぜにされ、そこから現代につながる重要な思想が生まれたからである。

21世紀の私たちは経済停滞に苛立ち、無力な経済政策を責め立て競争を妨げる過度な規制の撤廃を求めてきた。こうした政策発想は費用対効果を重視する功利主義の思考方法であり、ミルもその思想的系譜にいた。功利主義者にとって自由や競争は経済効率を高めるのに必要不可欠と考えられていた。両者はそれ自体が達成されるべき目的ではなく、あくまで豊かさを実現する手段であった。

19世紀の経済学者の多くも経済が停滞する事態に対しては自由や競争が妨げられて豊かさが実現されない非効率な状態と考え苛立ちを覚えた。しかしミルは停滞しているように見える経済を想定する場合であっても、その背後で様々な経済的メカニズムがダイナミックに働く余地のあることを見いだす精神のしなやかさがあった。

彼の功利主義はスポンジのような柔軟性を備えていたのである。もちろん自由や競争を軽視したわけではない。逆に彼は自由や競争自体に手段以上の崇高な価値を見いだした思想家でもあった。

「経済学原理」でのミルはデビッド・リカードなどの古典派経済学者に比べると平等な所得分配をはるかに重視した。ただ、競争を諸悪の根源とする社会主義者には競争の作法を説いている。「自由論」でのミルは少数のエリート支配からも大衆の支配からも自由な社会を実現するために言論の作法を説いている。

競争と言論の作法を説き、社会主義やロマン主義にも心を開いた。柔らかな功利主義に立ち戻ってみる。そして19世紀の巨人ミルが語りかけてくるメッセージをくみ取ってみたい。ミルは、ある主張への極端な傾斜がなく常にバランスと柔軟性をもって価値判断を示した。そうしたスタンスゆえに経済学の分野で純粋理論の提示を最終目的とすることは決してなかった。1848年に出版された代表的著作「経済学原理」でもミルの定理や命題と呼ばれるような経済理論への貢献はない。

ミル自身も「経済学原理」が出版当初から反響を呼んだのは「応用の書」であって「経済学を1個の完結した学問として扱わず全体を構成する部分と捉える姿勢を示した」からと考えていた。この著作の経済学的主張の基本線は当時主流派であった市場経済を擁護したリカード経済学の枠組みを踏み越えていないという意味でオーソドックスである。

しかし経済成長(資本蓄積)に対する評価や社会主義に関する見解は正統派経済学から距離を置いた考察を展開している。いわば正統の中に異端を封じ込めたような書物である。そこに魅力があった。

— posted by しょういち at 03:29 pm